プロフィール

自由民主党千葉県第十四選挙区支部長

高橋 恭介

(たかはし きょうすけ)

生年月日:
昭和 49 年 8 月 21 日
出 身:
千葉県鎌ケ谷市
血液型:
B 型
趣 味:
散歩、野球、将棋
好きな食べ物:
とんかつ、海苔、ラーメン、梨
好きな言葉:
千里の道も一歩から

わたしの決意

私が政治に関心を持ったのは、14 年前に亡くなった父の影響です。四人兄妹の次男として千葉県で生まれ、父は船橋市の印刷会社で長くサラリーマンをし、その後習志野市で独立。亡くなる半年前に身体の不調を抱えながらも資金繰りを気にして検査に行けず、末期がんの末、59 歳の若さで亡くなりました。平成22年6 月30 日の話です。

社員のため、お客様のために、働き方を選ぶこともできずに亡くなった父の姿をみて、この国の働き方を本気で変えていかなければならないと思ったことが、政治への関心を更に強くした大きなきっかけでした。

私は民間の力だけではなく、政治の力も掛け合わせることで、中小企業の継続的な賃上げスピードを、もっともっと上げていきたいと考え、衆議院議員を目指す決断をいたしました。

年齢、性別、学歴、職歴、そして時間と場所に捉われない新しい働き方の推進と、努力が正当に報われる社会の実現が『強い経済』をつくります。
そして『強い経済』は、物価高、少子高齢化、国土強靱化防衛安全保障といった、今の日本が抱えている様々な問題の解決に繋がる力となります。

働く人のための「一人の起業家」から、ご高齢の方々や子どもたちといった、すべての“ひと”の声に耳を傾け、“国民の暮らしを守る”ことを目指して、この千葉14区から「明日の日本」のために人生を懸けて全力を尽くす覚悟です。

これまでの歩み

千葉県鎌ヶ谷市生まれ

▶︎昭和49年〜昭和56年 幼少期(0歳〜7歳)

昭和49年8月21日、千葉県鎌ヶ谷市佐津間で誕生しました。

父の名は「常栄(つねえい)」といい、「栄」の字は、当時の内閣総理大臣であった田中角栄さんの名前にあやかっています。

また、父の生まれは、田中角栄元総理の選挙区の新潟県刈羽郡小国町。一方で母の生まれは、麻生太郎元総理の選挙区の福岡県飯塚市東徳前。

物心ついた時から自民党の支援者である両親の元で育ちました。

兄妹には2歳上の兄と2人の妹がいます。小学校に上がるまでは松戸市の六実で育ち、次女の誕生を機に千葉県柏市の南逆井へ引っ越しをしました。

周りの家族と比較しても4人兄弟は珍しく、いわゆる“大家族”でしたので、金銭的な理由からも家族全員での旅行や外食の経験はありません。

▶︎昭和56年〜昭和64年 小学校・中学校時代(7歳~15歳)

小学校は松戸市立六実小学校に通い、毎週日曜日には船橋市豊富町にあった硬式野球の少年野球リーグ「船橋リトルリーグ」に通っていました。

練習場は自宅から車で50分程の距離にあり、当時はなぜこんなに遠くまでいくのか深く理解はしていませんでした。

船橋市高瀬町にある印刷会社で働いていた父は、船橋市内の仕事関係の様々な交友関係の中で、野球好きであったこともありコーチを務めていたため、兄と二人で通うことになりました。

中学校に入学する前に自宅が手狭になったことから引っ越し、柏市立南部中学校に入学しました。

部活動は野球部に所属してスポーツに打ち込む一方で、学級委員長や生徒会副会長も務め、勉強も非常に楽しく、充実した毎日を過ごしておりました。

高校受験では進学校の公立高校を目指し受験勉強に励み、父の望みでもあった千葉県立船橋高校へ合格しました。

千葉県立船橋高校卒業

▶︎平成2年〜平成5年 高校時代(16歳〜18歳)

入学後も勉強に真面目に打ち込み、1年生の時に受験した模試の点数が良かったため、某予備校から難関大学を受験するための特別コースの案内が自宅に届きました。

私は「良い大学に行くことで、父と母が喜んでくれる」と純粋に考えていたため、両親に特別コースに入りたいと伝えました。
しかし、両親の反応は想像していたものではなく「拒絶」に等しい反応でした。理由は、受講料の負担が大きかったからです。

これまでは「親が喜ぶ選択は何なのか?」を考えて生きてきました。
私はこのことをきっかけに、学業に専念することよりも働いて収入を得ることを選び、「人とは違うレールで人生を歩んでいきたい」と覚悟を決めたのもこの時です。

この日以降、部活を辞め、これまで好きだった勉強もせず、アルバイトで収入を得ることに注力をするようになりました。

最初のアルバイト先は、新京成線津田沼駅に隣接しているイトーヨーカドーの中にあるおもちゃ売り場でした。

その後も様々なアルバイトで収入を得ながら高校時代を過ごし、1年間浪人して東洋大学経営学部に入学しました。

東洋大学経営学部卒業

▶︎平成6年〜平成11年 大学時代(19歳〜24歳)

大学に進学するとさらに多くのアルバイトを経験しました。
その中でも特筆すべき経験としては、家庭教師のアルバイトです。

熱心に取り組んでいると受講生のご家族から信頼していただくことができ、お知り合いの同級生のご家族のご紹介が増えていきました。さらにそのご家族から別のご家族をご紹介いただくこともあり、信頼関係によって築かれた受講生の輪が広がっていきました。

そこで私は一度に受講生を複数名集め、毎日のように講義を行いました。その結果、大学の学費を自分自身で支払うことができるだけの収入を得ることができました。

しかし、働くことに没頭し過ぎた結果、卒業に必要な単位を4年間で全て取得することができず1年間留年し翌年卒業しました。

留年した年の就職活動においては、卒業まで2年間遅れてしまった分を取り返したいという気持ちで全力で打ち込み、第一志望であった大手金融機関グループから内定を頂くことができました。

みずほリース(株)入社、営業と財務を経験

▶︎平成11年〜平成14年 みずほリース株式会社時代(24歳〜27歳)

入社後は毎年決まった金額の昇給があり、新卒から2年目に上がるときは、当時の私にとっては大きな金額の昇給だったため非常に嬉しく高揚感がありました。
しかし、3年目を迎えた時には、営業成績に関わらず同期入社が横並びであり、格差がないことに疑問を感じました。

上司との初めての評価面談の際には、「年功序列型の制度なのであまり差がつくことはないが、たかはし君は非常に頑張って高い成果を出してくれている。このままの調子でわが社で長く働いていこう。」という言葉をかけていただきました。

上司から評価されていることを嬉しく思う一方で、やはり年功序列という仕組みに対し、矛盾を感じる気持ちが強くなっていきました。

そして、年齢に関係なく「頑張って成果を出せば正当に報われる環境で働きたい」と考え、転職を決意しました。

当時27歳だった私は、30代前半で起業することを目標とし、まだ何も仕組みができあがっていない、創業間もない会社で事業成長に貢献することで経営を学びたいと考えました。

ブライダルジュエリー店『アイプリモ』を
国内外約100店舗展開するプリモ・ジャパン(株)入社。
取締役副社長、台湾法人代表を歴任

▶︎平成14年〜平成20年 プリモ・ジャパン株式会社時代(27歳〜33歳)

半年間の転職活動の中で複数社素晴らしい会社の内定を頂きました。

私はその中で最も社歴が浅い所謂ベンチャー企業を選び、ここで社長のもとで働けば、自分も起業の夢が実現できると考え、設立3年目のプリモ・ジャパン株式会社に入社しました。

将来の起業のために、一つ一つ経営を学んでいこうという思いで、平社員からスタートし、1年後には取締役、2年後には取締役副社長に就任することができました。

そして2007年(平成19年)には、初の海外事業である台湾法人を立ち上げ社長に就任しました。 その後プリモ・ジャパン社は成長を続け、アジア各国に店舗を構え、ブライダルジュエリーのグローバルブランドに成長を遂げております。

入社時は、ここまで大きな会社になるとは思えないほど混沌としておりましたが「千里の道も一歩から」ということわざにもあるように、諦めずに経営を継続していくことの大切さを学びました。

混沌としていたプリモ・ジャパン社を大きく成長させるきっかけとなったのが「人事評価制度」の導入でした。

質の高い接客サービスを社員が提供できるようになるための目標を設定し、評価を基本給・賞与・インセンティブの3つに反映させた結果、社員の行動が目に見えて改善し顧客満足度の向上と黒字転換が実現しました。

プリモ・ジャパン社は上場を目指して事業を拡大していましたが、2008年(平成20年)4月に上場準備を一旦廃止する意思決定がなされました。

当時私は33歳で、自らは株式を1株も保有していない以上、取締役副社長といえどもやはり従業員の立場であり経営の意思決定はできないことを再認識しました。

起業するタイミングとしては、まだ早いという気持ちもありましたが、今経営者にならないと後悔するという気持ちが芽生え、人生をかけて取り組んでいく大きな決断をしました。

(株)あしたのチーム創業、全国47都道府県に拠点開設、
アジア4ヶ国に現地法人設立、中小企業約4,000社の賃上げに貢献

▶︎平成20年〜平成22年 株式会社あしたのチーム時代~黎明期~(34歳〜35歳)

2008年(平成20年)9月25日「株式会社あしたのチーム」を設立しました。

メインサービスは「人事評価サービス」です。一度失敗した人でもそこからもう一度チャレンジすれば報われる健全な社会を創りたいという強い想いで起業しました。

一方、人生において成し遂げたいことを考えた時に、ずっと起業家として人生を終えて良いのだろうかと考えはじめたのもこの頃です。

人生をかけてやっていきたいことが民間営利企業の経営だけで実現できるものなのかと再度問いただして疑問が生まれました。

そして「もっと大きく社会に貢献できる仕事は政治家である」との思考に至り、「政治家を目指す」というもう一つの目標を立てました。この時から携帯の待受画面は国会議事堂にして常に目標を頭に置きながら経営をスタートさせました。

当時の全財産700万円を資本金にして、買ったばかりの自宅マンションをオフィスにして、たった1人で会社を始めました。

設立直前の9月15日にリーマンショックが起きたこともあり、初めは売る商品もなければ、社員もおらず、何をして良いかすら分からずもがき苦しんでおりました。

父の他界により習志野市本大久保にある(株)常翔印刷を事業継承

▶︎平成22年6月30日 父の会社 株式会社常翔印刷を事業承継(35歳)

起業して1年が過ぎた2009年(平成21年)の年末に、父が体調不良を訴え突然入院。末期癌と診断されました。
これまで何度か父の会社の経営が厳しいと相談は受けており、詳しく調べていくと帳簿にも載っていない知人や親族からの借入があることが判明しました。

自身の会社もまだ軌道に乗っていない中、私は父の会社の借金も背負うことになり、自分の東京の会社と父の習志野市の会社を毎日のように行き来するようになり、この時だけは体調を崩し、精神的にも追い込まれる時期が続きました。

そして2010年(平成22年)6月30日に父は入院中の病院で帰らぬ人となりました。

父が亡くなる3時間前に私は父とこのような会話をしております。
「生命保険が入ってくる。このお金を〇〇さんと〇〇さんと〇〇さんに渡してもらいたい。そして残された家族、会社の従業員を宜しく頼むな。」
父からお願いされた最期の言葉、表情を今でも明確に覚えております。

父は自分の命と引き換えに、私達家族と会社の従業員を守ってくれました。

▶︎平成22年〜平成27年 株式会社あしたのチーム時代~全盛期~(35歳〜41歳)

リーマンショック直後の起業が上手くいっていないことや父の会社を事業承継者したそんな中で、2012年(平成24年)12月第二次安倍政権になりアベノミクス「3本の矢」と呼ばれる政策が始まります。

この政策の結果、有効求人倍率がジワジワと上がり、2014年(平成26年)に1.11倍にまでなりました。
「有効求人倍率が1倍を超えた=人を雇いたい企業の方が働きたい人より多いので"人手不足"になった」ということです。

頑張りが正当に報われることを目的とした人事評価サービスは、
「人が採用できない」「優秀な人が辞めていく」という中小企業経営の課題の変化により、人が余っていた時代には、全く見向きもされなかったサービスにスポットライトが当たり始めました。

自宅マンションでたった一人で産声を上げた会社は、正社員300名、全国47都道府県に拠点を構え、アジア4か国に拠点を構える規模に成長を遂げていきました。

▶︎平成28年〜令和2年 
 株式会社あしたのチーム時代~売却、政治の道へ~(42歳〜46歳)

親しい経営者の中に、株式会社弁護士ドットコム創業者の元榮太一郎氏(前千葉県選出参議院議員)がおり、元榮氏は2016年(平成28年)、参議院議員選挙 千葉県選挙区から自民党公認候補として立候補し、見事に当選されました。

これを間近で見た私は、目標にしていた政治家になるため本格的に動き出すことを決意しました。

2017年(平成29年)10月には、第48回衆議院議員選挙が実施され、大学時代の親友が野党から立候補して、衆議院議員になったという知らせがありました。

私自身は、2018年(平成30年)7月に人生を懸けて一から築き上げた自身の会社を上場企業に売却し、政治活動に必要な資金を担保し具体的な活動を始めました。

その後2年間は代表取締役を継続していたものの、2020年(令和2年)10月には、上場を目指す過程で監査法人の変更があり決算修正を行う判断をし、そのタイミングで代表取締役を退任しました。

そして、時間的にも政治活動に100%打ち込んでいくことになりました。

(株)給与アップ研究所創業 代表取締役就任
衆院選比例区南関東ブロック自民党公認出馬
自民党千葉県第十四選挙区支部長就任

▶︎令和3年~令和5年3月 自民党での活動(47歳~48歳) 

実は私は、2021年(令和3年)10月に第49回 自民党南関東ブロック 比例代表候補者として選挙に挑み落選しております。

そして今、習志野市・船橋市東部が選挙区となった新しい千葉県第十四選挙区の自民党支部長職を2023年(令和5年)3月14日に拝命し、次回の選挙に向けて活動しております。

その一方で政治家として私が実現したい目標があります。
それは、「志の高い経営者がしっかり経営できる環境を整え、そこで働く従業員とそのご家族の暮らしの充実につなげ、それぞれが住んでいる地域のまちづくりを進めること」です。

努力をすれば経営者になることができ、素敵な社会貢献ができる。そんな“道標”になれればと思い、日々の活動に励んております。

▶︎令和5年4月~現在 千葉県第十四選挙区支部長として

千葉県第十四選挙区支部長に就任して約半年が経ちました。

「新しい選挙区から新しい政治」を目指し、習志野市・船橋市の皆様の声に耳を傾け、課題を把握しながら「千里の道も一歩から」を胸に、長年の自分の目標に向かって活動を継続しております。
習志野市・船橋市ともに大型の再開発事業が控えております。また、踏切における道路渋滞の問題や、これからはいよいよ少子高齢化、人口減少を迎える中で、まさに今政策転換の過渡期を迎える状況です。

これまでの民間企業の経営で培った、あるべき姿を追求する未来への成長の視点を持ちつつ、“国民の暮らしを守る”を掲げ、日々活動して参ります。

地元の皆様との交流やSNSを通じ、日々の活動についての情報発信も行います。

高橋きょうすけのこれからの活動にご期待いただき、支援の輪を広げていただければ幸いです。

2023年10月吉日高橋恭介